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今では想像つかない嬬恋村(つまごいむら)の昔!キャベツや温泉はいつから名物になった?

2024年07月31日 地元を考える 観光

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高原キャベツが有名で、夏は避暑、冬はウィンタースポーツや温泉で多くの観光客が賑わう嬬恋村。今やその姿は当たり前になりつつありますが、昔はどんな様子だったのでしょうか。

今回は、嬬恋村がかつてどのような姿だったのか歴史や人口、場所等から紐解いていきます。おなじみのあの場所も、見え方が変わってくるかもしれません。

嬬恋村(つまごいむら)のこれまでの歴史

まずは、嬬恋村の歴史から昔の様子を紹介します。

時代とともにその姿を変遷

約6000年前の縄文時代から始まった嬬恋村の歴史。以降は、関東地方と中部高地の文化に影響を受けつつ発展を遂げてきました。

平安時代になると、各所に住居が出来上がりいくつかの集落が生まれます。江戸時代には上州と信州を結ぶ街道が整備され、宿場や関所が置かれることで活気あふれる村になりました。

村史上最大級の大災害から嬬恋村誕生まで

天明3年(1783年)には、浅間山で天明の大噴火が起こります。噴火に起因する土石なだれなどで街の様子は一変し、多くの犠牲者を出すことになりました。

明治時代に入ると、市町村制施行が始まります。かつて11あった村を一つに合併し、そこで初めて、村名を嬬恋村としました。

社会環境から見る嬬恋村(つまごいむら)の昔の様子

続いては、人口や観光業から昔の嬬恋村の様子を見ていきます。

人口

国勢調査による嬬恋村の人口推移の結果がこちらです。

 1925年1945年1965年1985年2005年2015年2020年
世帯数1,400 2,2293,0383,0233,7523,6643,532
総人口9,91412,04013,77511,056 10,8589,7808,850

調査開始から1965年にかけて世帯数も人口も増加し続けていることが分かります。しかし、その後の人口は下降傾向にあり2015年には10,000人を下回り2020年は8,000人台に突入しました。

一方、世帯数はむしろ増加しています。村から出る若年層が多く、高齢者が残されるという家庭が増えたことが大きな要因と考えられるでしょう。

観光

バブル期には、多くの観光客の呼び込みに成功し、最盛期は1993年の年間300万人超です。その前後も年間300万人に迫る数字でしたが、2004年には250万人を切ってしまいます。

そして、2017年には約200万人にまで落ち込んでしまいました。

近年の気候変動に伴う集中豪雨や、浅間山噴火の風評被害が観光客減少の原因とされています。

農業から見る嬬恋村(つまごいむら)の昔の様子

続いては、農業の歴史から昔の様子を紐解いていきます。

農業の変遷について

嬬恋村の1960年の農地面積は2,122haでした。その後は国営嬬恋西部開拓パイロット事業が始まり、1970年から1978年にかけて畑を570ha造成しています。その後も造成を重ね、2010年には3,536haまでに農地面積を増やしました。

作物種類別にみると、1960年には麦や穀類が多く、名産品のキャベツはまだそれほど多くはありません。しかし1970年以降は大きく変化し、現在ではほとんどの収穫割合をキャベツが占めています。

高原キャベツの歴史

この地にキャベツ栽培が定着したのは昭和に入ってからです。高冷地という地域の特性を活かして、一気に栽培数を増やしていきました。

1945年の国鉄長野原線の開通や、1963年の「指定野菜生産出荷近代化事業」の発足などにより、現在に至るまでキャベツの栽培面積は年々増加しています。

場所別嬬恋村(つまごいむら)の昔の様子

嬬恋村にあるさまざまな場所も、あらゆる変遷を遂げて今に至ります。こちらでは下記3つのスポットの昔の様子を紹介します。

万座温泉

村内で最も著名な観光地の一つである万座温泉の歴史は古く、誰がどのように発見したのかさえも分かっていません。

ただ、今から400年前の江戸時代の頃にはすでに多くの人が利用する温泉だったと文献には記されています。

1965年には「万座温泉スキー場」が営業開始し、1987年には、本スキー場を舞台にした映画「私をスキーに連れてって」が公開。多くのスキー客が訪れるようになりました。

大笹

現在は民家となっている大笹地区には、かつては幕府公認の大笹宿という宿場町があり、追分宿として大きな賑わいを見せていました。面する道路は、信州の上田氏が沼田と結ぶ軍事道路として開削したそうです。

浅間高原

北軽井沢ともいわれ、日本屈指の別荘街も有するのが浅間高原です。かつては幾度となくあった浅間山噴火の影響で人が住むことはなかったものの、1881年に北白川宮能久親王によって浅間牧場が開設され、その後徐々に避暑地としての賑わいを見せていきました。

戦後には、旧満州国で開拓に携わった人々が開墾し、農業地にしたというのも大きいでしょう。

まとめ

100年ほど前まで、嬬恋村はスキー事業はもちろんキャベツもなければ観光地としての役割もほとんど果たしていませんでした。昭和に入ってから急激に発展を遂げ、多くの人の尽力により今の姿があります。

嬬恋村を訪れた際には、この地の昔の姿に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

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私たちについて

プリンスランド興産は、プリンスランドや浅間湯本などの別荘地を運営管理し、嬬恋村の地域活性に貢献できるサービスを提供しています。私たちの使命は、嬬恋村の魅力を広め、より多くの方にその良さを知っていただくことです。自然豊かなこの村で、観光、レジャー、そして生活を楽しむための情報を発信し、地域の発展に貢献することを目指しています。嬬恋村が持つ独自の魅力を引き出し、多くの人々にその素晴らしさを体験していただけるよう努めています。

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